- Einer der Gruende -


どうして彼に部屋を貸すことにしたのかなんて、実のところ覚えてはいなかったりする。
ただ、自分一人で過ごすには少々広すぎる家に暮らしていたのと。

食堂で猫に笑いかけていた姿が、少しだけ。
そう、ホンの少しだけ。
今はもう居ない人に似ていたから、かもしれない。



「んーっ」

作業に一段落がつき、息をつきながら背を伸ばす。
コキリと肩が鳴り、腕を軽く回す。思ったよりも集中していたらしい。
凝ったあちこちをほぐしながら、道具を片付けて居間の扉を開けた。

「っと、向こうもか」

時間的にそろそろ食事の支度をする頃合だ。
けれど自分にそれを禁じた同居人の姿は共有空間の何処にもなく。となれば自分と同じ、作業に没しているのだろうと容易に想像がついた。
視線をその部屋がある方向へと向ければ、何故か扉が完全には閉まっていない。
珍しいこともあるものだと、興味を引かれてそちらに向かう。
足音を殺したのも集中の妨げにならぬよにするため。の、はずだったが。

(……おや)

扉を開き窺い見た部屋の中にはもう一人、いやもう一匹の住人もいた。
靴下をはいたよなその黒猫を抱いてゆっくりと撫でている同居人の顔は、どこまでも柔らかな笑みを浮かべていて。
常であれば絶対に見せないその表情に、フッと口元が緩んだ。

(似てないのに、似てるよな…)

浮かんだ記憶、その人は自分よりガッシリとした体格で。銀髪で。抱かれている猫は多少の濃淡あれど茶一色の毛並みで。花の名を持つ猫よりずっとツンとしたすましやで。どちらも全然似ていなかったのに。
でも浮かべていたその笑みは、扉の向こうに居る黒髪の青年と同じようにとても柔らかなもので。
小さな幸福、穏やかな時間が流れてゆくのを、あの時もただ見ていた。
知らず、自分も笑みを浮かべながら。


「……家主殿」

不意に振り返る部屋の主。
驚いたような素直な顔は、だがすぐに仏頂面へと変わってゆく。

「来ていたなら、声をかければ良かろうに」
「うん?ああ。別に用事ってわけでもなし」
「……そも、なんだその、面白いものを見た、と言わんばかりの表情は」

自然と浮かんだ感想は言葉にしなくても相手に届いてしまったようで。
不本意を形にしたかのような無愛想な声が返ってくる。
口元の笑みは別の意味でも消すことができず、片手で隠すものの、当然相手の眉間には皺が寄る。

「ほら、そんな顔するからヴィンデが呆れてるぞ」

実際はどうだったのやら。呆れられたのは同居人ではなく家主の方だったのかもしれない。
分かっているのにそういう態度を、と。
言葉の端々に笑みの気配が残っていれば、同居人の機嫌が直るわけもない。
が、どうにも止まらなかったりするわけで。

「あー、用事もあるにはあるか。お茶が飲みたいと思ったんだけどね」

何でも自分の淹れたものは茶とは呼べないらしい。
同居人の剣幕に負けて「彼が居る間は台所には入らない」などという約束をしたのは青年の身元引き受けをした直後、茶を出した時の話。
そこまで酷くはないと自分では思うのだが、まあ得意とも言わない。
だからあながち嘘でもなく、そんな頼みごとを口にして。



その後、律儀にお茶を淹れてくれた同居人は、けれど翌日の食事時になっても必要最低限以外の口をきいてくれなかったりした。
居心地の悪さに少しばかり遠い目になりつつ。
あんな笑顔をまた見る機会があれば、などと考えていたりするあたりも。

家主に名乗りを上げた理由、だったかもしれない。







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