-Mirage-


それは甘い甘い夢。

所詮は幻想に過ぎないと知っていても。
つい手を伸ばしてしまう。
沙漠の中に見つけた蜃気楼のように。

そんな甘い甘い罠。

甘い夢を見せよう。
甘い罠に捉えよう。

だがもしかすると。
その甘い幻に。


――囚われていたのは自分なのかもしれない。





幼い時の記憶にはロクなものがない。


その最初に憶えているのは。
恐怖に歪んだ琥珀の瞳と。
「バケモノ」という甲高い声と。
振り払われた大きな手だけ。


薄ら寒いコンクリートの影で座り込み泣いていた。
立たせてくれたのは辺りを縄張りとしている人物で。

――無論、それが好意からでなぞあるわけもなくて。


役に立たなければ食事どころか水も貰えなかった。
殴られる蹴られるなどは日常茶飯事で。
やれといわれれば何でもやるしかなかった。

話しかけて対象の注意を引くことも。
指示された品物を盗んでくることも。
背後から冷たい刃を押し込むことも。
寝台の上で為すが儘にされることも。

恐怖に震え。
嫌悪に沈み。
人形と呼ばれ。
人形として扱われ。

使えるはずの能力も空回りするばかり。


――ロクな記憶など、残るはずも無かった。





彼の人と出会ったのは偶然だったのか。
はたまた必然であったのか。
それは分からない。


「あいつを刺せ」
何時もにまして無茶な指示だった。
こんな場所スラムには似合わない格好の人物。
だが屈強そうな人物を複数人連れて歩いている、その背後から襲い掛かれと。
…それでも拒否することなど許されない。
小さく頷き、建物の影から飛び出して、その人物に向かって走る。

「誰だ!」

両脇の男女が振り返る。その手には黒い銃。
それでも止まることは出来なかった。
死にたくは無かったから、柔らかい身体を出来る限りに利用して左右に動きながら走る。

チュイン、チュィィン!

音が響くと同時に左耳に鋭い痛みが走った。だが運良く掠めただけで終わったらしい。手の中のナイフを突き出して、目標となる人物に…

ガッ!

辿りつく前に勢い良く蹴り飛ばされた。
壁に叩きつけられて息が止まる。
ズルリと滑り落ちたところを引き摺るように吊り上げられ、壁に押し付けられた。
息が出来ない。
死への恐怖が身を包む。

それを意識した瞬間。
自分を掴んでいる男に向かって本能的に香を放つ。

直後、地面へと落とされた。
やはり大した役には立たなかった。
男は血走った目でこちらを睨み下ろし、銃口をこちらへと向けて。

「止めろ」

静かな声が、しかしハッキリとその場に響いた。
今しも引き金を引こうとしていた男はそれに反応して動きを止めた。
カツカツという靴の音。
こちらに近寄ってきたのは、もう一人の女と標的だった人物。
その向こうには自分に命令を下した男が倒れていた。
額から止め処なく赤い筋を流して。

「面白い力を持っているな」

こちらを見下ろす声の主。
言葉の通り、楽しそうな声音で。
その唇が吊りあがっているのを、ただ呆然と見ていることしか出来なかった。



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