揺らめく炎を背にして去り行く影。
  その狼を自分でも信じられないほどに静かな思いで見送った。
  薄れてゆく共に在った者達の気配。
  その姿に深い感謝を送りながら静かな思いで天を振り仰いだ。

  やがて吹き寄せた風と共に。
  目の前に広がる鮮やかな緑。

  「お疲れ様、ハヴィ」
  「ありがとう、リリィ」

  悪戯っぽく微笑んで手を差し伸べるリリーに、ハーヴェイもまた微笑を返して手を伸ばした。



一番最初の記憶は嵐の夜。
凍えそうな風の中を父に抱かれて家に入ってきた幼い少女。
怯えながらこちらを見つめる翠玉の瞳。
そっと近づき冷たい手を握ると驚いたようにこちらを見つめて。
―― 小さく笑うと眠りについた。

一番最初の記憶は冬の朝。
母と共に助けられたその家でこちらの手を握って眠る少年。
優しくこちらを包んでくれた瑠璃の瞳。
そっと近づき手を触れると一瞬その目を開きこちらを見つめて。
―― 小さく笑うと眠りについた。


 遠き地にて父を失い放浪してきた少女。
 遠き地へ父を見送り留まり続ける少年。
 二人の出会いは寒い冬の一日に。


放浪で身体を壊していた少女と母親はそのまま村に留まり。
二人の幼子は兄妹のように仲良く成長した。
その想いが段階を経て育っていったのもまた自然なことで。

それは同時に悲劇の種をも育てた。
小さな歪みも静かに成長していった。

やがて大きな悲しみとなって花を開く。

少年が成長した青年は父の足跡を受け継いで。
少女が成長した娘は父からの血を受け継いで。

本人達も知らぬ間に、二人は相容れないモノへと。


 「おかえりなさい、ハヴィ!」
 緑の髪を風に揺らして娘が迎える。
 「ただいま、リリィ」
 茶の髪を風に吹かれ青年が戻る。

 交わされる笑顔、温かな抱擁。
 崩壊がすぐそこに迫っているとは知らずに。


―― 私が知らないうちに崩壊は始まっていた。
修行を終えてから初めて戻った故郷。
ゆっくりと休んでいる間に旅人が無残な姿で発見された。
何も知らない私はその場に居合わせたことを感謝した。
故郷を自分が守れる機会に恵まれたと思って。
先に待ち受けるものが何かも知らずに。

―― 私が知らないうちに崩壊は始まっていた。
自分の中で眠り続けていた父の血脈。
いつしか抑えられなくなったそれに憑かれて人を襲った。
何も知らない私はそのことに気がつき怯え神を呪った。
故郷を自分が滅ぼすことになるのだと思って。
先に待ち受けるものから目を逸らして。

 何も告げずに満ちてゆく月。
 静かに狂気を満たしてゆく。

とうとう村の中でも行商人が無残な姿で発見された。
それは紛うことなく村の中に人狼がいる徴。

青年は愛しい幼馴染をその手で守ろうと。
娘は愛しい幼馴染を手に掛けたくないと。
互いを思いやるが故にすれ違ってゆく心。

 そして悲劇の幕が開く。
 望月の輝く美しい晩に。


「怯えないで、絶対に守るから」
これまでも人狼を屠ってきた弓矢を手にして、私はリリーの家を訪れた。
彼女は私を怯えきったように見つめてきた。
―― 彼女が真実何に怯えているのか、私は見誤ってしまった。

「お願い、そんな武器は捨てて」
鈍く光る銀から目が逸らせないまま、私はハーヴェイを家に招き入れた。
彼は私を安心させようとして見つめてきた。
―― 私が真実何に怯えているのかを、彼は知らなかったから。

そして彼が安心させようとその弓を持ち上げたその時。
最後の引き金は引かれ、彼女の心は狂気に呑みこまれた。


「リリー!?」
リリーの様子が急変してゆくのを見てハーヴェイは慌てた。
荷物の上へ弓矢を置き、慌てて彼女の傍に駆け寄る。
「苦しい … くるしい … クルシイ!!」
悲鳴を上げて暴れるリリー。
リリーの身体はどんどんと変化してゆき、ハーヴェイはギクリと全身を強張らせた。

 その両腕は狼のものへ。
 その皮膚は狼の毛皮へ。
 その悲鳴は狼の叫びへ。

やがてリリーはハーヴェイを信じられない力で振り解いて立ち上がり。
視界の隅に恐怖を浮かべて立ち竦む女性を見つけた。
「そんな…今になってあの人の血が…」
呟き涙を流す母親に向かい、リリーが跳躍する。
「リリー!」
とっさにハーヴェイはその女性を突き飛ばした。
だがそんな動きさえもまた彼女の想定内で。
更に一段踏み込んだ彼女の爪は、母の喉を深く切り裂いた。

混乱する思考のなかで、刷り込まれた技術だけが彼を動かしてゆく。
人狼を屠るのに必要なのは銀の武器。
先ほど置いた荷物の上から調整したばかりの弓矢を取り上げ。
「落ち着くんだ、リリー!」
それでもハーヴェイはどうにかしてリリーをこちらに呼び戻そうと。
無駄だとは知りながらも、最後の希望に縋るように彼女に呼びかけた。
「喉が渇ク…!」
けれどリリーの瞳は狂気に赤く染まり。
母親の身体から流れる血を啜って小さく呟くばかり。

結社で鍛えられた身体は、錯綜する思考の中でも的確に動いた。
銀の矢を弓に番えて腕を持ち上げるハーヴェイ。
だがその腕は震え、狙いは定まらない。
思考は現実を拒否するように巡り、最後の動作を押し留めるが。
「ああぁアアアァァッッッー!!!」
人狼の本能は、混沌とした思考の中でも銀の気配に敏感に反応した。
視界に入る鈍い光に更なる悲鳴を上げるリリー。
全身が震え、瞳がハーヴェイを捉える。
死への恐怖は全てを圧倒しながら迫り、元凶を葬るために動き。
「リリーッ!!」
ハーヴェイに飛び掛るリリー。
凍りついた空気の中、二人の身体は頭と離れて動く。
 
 人間に害を為す存在に致命傷を与えるために。
 人狼に害を為す存在に致命傷を与えるために。

 狙うのはその心臓。
 狙うのはその喉笛。
 放たれた銀の矢は真っ直ぐに飛び。
 振るわれた鋭い爪は勢いを削がれ。

 銀の矢は過たず彼女の心臓を貫き。
 鋭い爪は彼の喉笛に届かず薙がれ。

その瞬間、自分が何をしたのか彼にも彼女にも分からなかった。
ただその手に残る感触と、その胸から届く痛みが。
次の瞬間、自分が何をしたのか彼にも彼女にもしかと悟らせた。

 その場に崩れ落ちるリリー。
 慌てて駆け寄るハーヴェイ。

抱き上げられた腕の中で、彼女はゆっくりと彼を見上げた。

その瞳は狂気の緋から本来の翠玉に戻り。
哀しみを宿して涙を流していた。
「ご、めん、な、さい、ハヴィ……」
―― 掠れた声が最期の言葉を紡いで。

その瞳は狩人の青から本来の瑠璃に戻り。
哀しみを宿して涙を流していた。
「……リリィ……」
―― 応える声はどこか弱々しく響いて。

緑の髪が彼の腕から零れて広がる。
その腕の中で彼女の身体はゆっくりと冷たくなっていった。
もはや互いに何の言葉も発せないまま。

リリーは静かに息を引き取った。


村に教会の鐘が鳴り響く。
犠牲者の旅人と行商人とリリーの母と。
厳かな空気の中 3人 の冥福を祈る葬儀は営まれた。


―― あの直後、巡回の自警団員達がリリーの家へ押し寄せた。
その惨状からも人狼が誰であったのかは明白で。
私はいきり立つ彼らから彼女の遺体を離すので精一杯だった。
さもなければ彼らは更に切り刻みでもしそうな勢いで。
まだ呆然とした状態のまま、それだけは避けなければと、私は必死に彼らを説得した。
人狼の血は危険だから、処理は自分がするからと、そう言って彼らを引き下がらせた。
その半分は真実で、半分は嘘。
人狼から受けた傷はその人間をも人狼にすることがある。
しかし銀の毒が回った死体から感染することはまずない。
最期の瞬間だけは人間の瞳をしていた彼女。
その遺体を荒らされることはどうしても容認できなかった。
森にある木の洞へと一時的に隠し。
葬儀に出た後、夜を待ってその場へ戻り。
村外れにある墓地の外にそっと彼女を埋葬した。
母君の眠る墓に近い場所、但し墓標も何もないままに。
そこに彼女が眠っているのを知るのは私だけ。
闇の中、静かに目を閉じ彼女に別れの言葉を告げた。


 欠け始めた月が冷たく光る。
 咲き始めた Lycoris の花が月光を受けて赤く浮き上がる。
 静かに吹き抜ける風はただその姿を揺らすばかり。


やがてハーヴェイは、結社の中でも異端者として知られるようになっていった。
確かな弓矢の腕と、幾つもの事件を解決したその手腕への評価に付随して。
人狼への「甘さ」もまた同じように伝わっていったのだった。
時に非情となることも要求される結社の中で、その甘さは眉を顰められることの方が多く。
見切りを付けられない彼は、相反する心に常に揺れ、噂は広がり続けた。


そして。
その最後にハーヴェイは柳の揺れるその村へと辿りついた。
人間と人狼の愛憎。
少しずつ狂気に侵されてゆく心。
彼もまたその中に囚われ、遂には生命を落とした。

けれど出逢った事件はその結末に、小さな小さな希望の欠片を生み出して。



  「見届けて良かったでしょう、ハヴィ?」
  「あぁ、確かにリリィの言う通りだった」
  「私達には見つけられなかったものだけれど」
  「彼らになら見つけられるのかもしれないね」

  それは確実な未来ではない。
  けれど確かな可能性を孕み。

  「それじゃ、私達もいきましょう」

  重ね合わされた手。
  一度は離れたその手もまた。
  微かな希望の光に照らされ結ばれて。



―― 二つの影はゆっくりと光の中へ溶けていった ――






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