その禁断の果実に触れたのはいつの事だっただろうか。 両の手を紅に染め、口腔に広がる紅に酔う。 その味は柘榴の如く甘美で。 満たされぬ渇きを一時癒してくれる。 闇に潜み、時に陽の中で人間の振りをして。 放浪の旅人を装って生きてきた。 幼い頃に呼ばれていた名を使い。 気紛れに村に立ち寄っては渇きを癒して。 喰らえるだけの人間がいなくなればまた新しい土地に移った。 別段悪い事だとは思わなかった。 流れ者として時に忌避され時に疑われ。 その裏を掻くように人を襲い渇きを癒してゆく。 死者に怯える人々、本性を表した自分に絶望を浮かべる顔。 僅かな罪悪感を抱く事はあっても長続きはしなかった。 何故ならそれは自分が生きるために必要な事だったから。 極自然な行為として人を喰らい続けた。 時には天敵のような人間に出合うこともあった。 人外の存在を占う者、死体からその判別が出来る者。 簡単には傷つかぬこの身体に傷を負わせるだけの力を持った者。 そして我々の存在を知り、狩り出す方法を調べ続けている結社の者達。 彼らは力に溢れ危険だが、その血肉を得た時にはこの上無い高揚感も共にあった。 その絶望は誰よりも深く強く。 暗い愉悦に浸りながら貪ったものだった。 そんな自分を厭うことになるとは思いもしなかった。 幼い少女を助けたのはほんの気紛れだった。 たまたま通りかかった時に目に入った紅の衣装。 それに興を惹かれたから手を出しただけだった。 谷間に落ちそうになっていた少女は泣きながら村へと案内をし。 そして少女を探しに来ていた彼女へ飛びついた。 「エッタ!」 「シャロお姉ちゃん!」 青い髪に紅のリボンが揺れる。 見つけ出した少女に安心したのか、自身もまた涙を浮かべ。 少女が指差したこちらへ丁寧に頭を下げてきた。 村長の娘だと名乗った彼女は従妹の恩人を村に迎えたいと言い。 私は笑って肯くと、ありがたく申し出を受けた。 そろそろこの渇きを癒したい。 ただそう思って。 いつものようにただの旅人として村に入った。 何の変哲も無い村だった。 そこにたまたま天敵が揃っていたのは可笑しな偶然で。 更には同胞までが潜んでいたのには哂うしかなかった。 簡単には疑われぬように生活に溶け込んでゆく。 幸いにも少女の恩人という話は村中に伝わり、大して苦労もしなかった。 旅人の仮面を被り人間の中で暮らしてゆく。 これもまたいつものように。 そして雑貨屋を営む同胞とそれとなく連絡を取り合い。 互いに邪魔だと思った者達を襲い、その血肉を貪った。 たまたま村に来ていた踊り子を。 死者の声が聞けるという墓守を。 人を見分ける目を持つ語り部を。 邪魔する手段を持った修道女を。 結社の証を見せて立った学生を。 彼らの嘆きと血肉の甘さは、いつものように渇きを癒してくれた。 途中で同胞が正体を暴かれ処刑されたが、特に何も問題は無かった。 そう、何も問題無いはずだったのだ。 人の仮面を纏って付き合ううち、自然に彼女との縁は深まっていた。 最初はただの遊戯のつもりだった。 だが彼女の明るい笑顔と何気ない優しさは、こちらの張った壁を乗り越え。 いつしか私は彼女を愛しく思うようになっていた。 だからその涙を見たとき。 初めて自分という存在を疎ましく思った。 その日、夜が更けてから私は村の広場へ呼び出された。 初めて覚える不安と共に広場へ向かった私を待っていたのは。 「シャーロット…」 その手に銀の短剣を握り。 悲しそうにこちらを見つめる彼女。 「ギルバートさん…」 彼女はかの学生と同じ結社の証を示して見せた。 我らの存在を知りその研究を続けてきた者達。 ほんの小さな痕跡をも彼らは見落とさなかった。 残された手がかりが指す最後の人狼は私一人。 彼女が人間達を助けるには私を屠るしかなく。 私が生き残るためには彼女を喰らうしかなく。 初めて牙があることを疎ましく感じた。 初めて人を襲いたくないと思った。 初めて自分の存在を呪った。 本能は目の前の果実を刈り取れと吼え。 感情は目の前の生命に触れるなと叫び。 相反する声に導かれるように、あるいは引き摺られるように。 私は彼女に向かって走った。 その彼女が泣きながらも笑ってこちらに銀の切先を向けた時。 本当は何を望んでいるのかを知った。 自分と彼女の願いが重なり合うことを悟ったその瞬間。 私もまた彼女に微笑んでいた。 私の牙は彼女の首筋に深く埋り。 彼女の短剣は私の心臓まで届き。 「「愛している」」 鋭い痛みと衝撃が全身を駆け抜ける中。 私達は互いに想いを告げた。 紅の衝動をやり過ごし、黒の中に意識が溶けるまで。 相容れぬ存在でありながら同じ心を抱いて。 そして全ては闇の中へ。 ...それが遠い未来であっても... ...いつか幸せになれるように... ...どうか共に暮らせるように... 最期の瞬間に絡みあう祈りの言葉。 願いが成就されるその日まで。 風に乗って想いは世界を巡る。 数多の悲劇の中に生まれるかもしれない、僅かな希望の光を求めて。 |