- Erinnerung an den Scharlach (朱の記憶) -


誰も、それを予測することなどできなかった。

大学に通う為に今は別の街で暮らしている長男も戻った年末。
友人や知人で都合のつく者を招いての楽しいパーティ。
生憎と間が悪く吹雪に見舞われてしまったが、年越しも控えて用意されたものは多く、数日程度なら篭城することになっても何の問題も無かった。
そう、何の問題も無いはずだったのだが。

 人、場所、時。

まさかこんな小さな場所で揃ってしまうとは。
誰も思っていなかったのに。



 「ねえさま。にいさまはなんでいつもとちがうにおいがするのかしら」

先に夜着へと着替え、寝台に潜り込んでいた妹が不思議そうに声を掛けてきた時。暖炉の調整をしていたユーディットは軽く振り返った。

 「いつもと違う匂い?」
 「だから、にいさま」

不安そうな顔なのは当たり前である。閉じ込められてからはや3日、その間に複数の死者が出てしまっている…しかもその内の一人は彼女達の父親で。母親のように倒れないでいるだけマシなのだ。

 「それだけじゃ分からないわよ」
 「おはなのかおり。あと、へんなにおい」

何でもいいから話していたい、そんな勢いで喋る妹。返事は欲しいが回答が欲しいわけでもないのだろう。パタパタと足を動かしながら答えてくる。

 「………」

だがその答えにユーディットの動きは止まり、それから大きく首を振った。
不意に閃いてしまった想像を打ち消すように。

 「お母様の介抱を手伝われてたから、その匂いが移ったんじゃない?」
 「んー?そうなのかなぁ…あっ」

寝台へと戻り髪を撫でてくる姉の手に、妹は目を瞬いた。

 「あのね、へんなにおい、これみたいなのだった」

頭の上に手を伸ばして。

 「いまのねえさまのにおい、ちょっとにてたの」

ピクリ、と止まる手。
妹は不思議そうにその顔を覗き込む。

 「ねえさま?」
 「…なんでもないわ。ごめんなさい」

小さく笑って見せながら、サイドテーブルのランプを絞った。
影が大きくなり、その表情を分かりにくくする。

 「ほら、今夜はもう寝ましょう」
 「うん…」

しがみついて来る妹をあやす姉。その手はどこまでも優しく。
幼い少女には、隠された僅かな震えを感じ取ることは出来ずに。

 「おやすみなさい、レーネ」
 「おやすみなさい、ねえさま」


暗くなった寝台の中、ユーディットはじっと天井を見つめていた。
兄に抱き上げられて連れてこられた妹の思わぬ告白。
手の匂い。直前、火掻き棒を持っていた自分の手。
それらは、一瞬の閃きを肯定するものであって。
昨夜から必死に打ち消してきたはずの、可能性。

妹を撫でていた手を下ろし、右の肩に触れた。
薄い夜着の下、僅かに熱を持っている部分がある。


― そこにあるのは、鮮やかな朱花の痣 ―。





隣から寝息が聞こえてくるのを待って、握られたままの手を離させた。
起こさないように気をつけながら、その灰銀の髪を撫でる。可愛い妹。だが選んでしまった。
この子ではなく、あの人を。
そっと静かに、起こさないように気をつけながら寝台から起き上がる。
灯りを落とす前、出しておいた上着に袖を通して。

 「ごめんね…」

もう一度、小さく小さく囁く。
ゆっくりと扉を開けて、廊下へ。
あの人の、部屋へ。


暗闇の中、ダーヴィッドは窓の外を見ていた。
断続的な吹雪、集まってきている本来ならいないはずの獣達。
外に出られないというのはそうでなくても陰鬱な気分を呼び起こす。
ましてや…。

 コン ココン

響くノックの音に、緊張が走る。
少しだけ特徴的な叩き方。昔からの上の妹の癖。

 「…どうした、こんな時間に」

暫く沈黙を返すものの、引き返す気配が無い。
溜息をついて声を掛ける。鍵は、掛けていなかった。
ギィという音を立てて開かれる扉。
案の定、そこにいたのは夜着の上に薄い上着だけを羽織った姿のユーディット。

 「…何て格好だ」
 「だって、眠れなくて」

呆れたような声で言えば、ボソボソと返ってくる。
気分が分からないわけではない。今の状況下では、できるだけ事実を隠している下の妹はまだいいとしても、ユーディットにはかなり辛いだろう。
しかもその右肩には。当事者も当事者である印が。

 「だからって。一応男の部屋だぞ」

できるだけ平静を装う。甘い香りを感じてしまっていることは押し隠して。
内なる衝動を押し殺して。

 「…ヴィ兄様」

懐かしい呼び方だった。そして何となくその先を予感をさせた。

 「レーネがね、教えてくれたの」

ずっと思っていた。あの男以外にばれるのなら、この妹にだろうと。

 「兄様から、花の香と…鉄錆の香りがするって」
 「…それで?」

不安がる下の妹を抱いて部屋に連れてったのは先刻の事。
落としきれてなかった微かな残り香に、あの子が気付いてしまったということか。

 「…ヴァルド夫人はフローラルノートを好まれていた。そして」

一度言葉が切れ、深く息を吸う音が鳴る。

 「そして。ヴィ兄様の部屋には、隠し扉があるわよね…」

ヴァルド夫人。誰も動かなかったはずの時間に殺されていた女性。
その言葉に、強く目を瞑った。

 「…ああ」


思わず出そうになってしまう溜息を、ユーディトは必死に飲み込む。
分かっていてここに来たのだから。
そう返ってくるだろうと分かっていて、聞いているのだから。

 「お兄様が、人狼、だったのね…」
 「…そうだよ」

低い低い返答。諾の言葉。
こちらを見ないその横顔は、いつもの兄と変わらないのに。

 「…班長さんも…」
 「………」

苦虫を噛み潰したような表情。
それでも否定しない。もうする気がないということか。

 「…夫人も…」
 「そういう、ことだ」

右の肩が熱い。
そこに浮かび上がった、朱花が。

 「…どうするの」
 「どうするもこうするも…」

苛立ったような声。何かを堪えるような。
思い出す。あの老人が言っていた言葉。

 『逆らえば苦痛を味わう』

つまりは。
目の前の人は今、苦しんで。

そんな状況は嫌だった。

 ――それくらいなら。


 「…ならば、私も食べてくれる…?」


体中を駆け巡る痛み。それをも否定し微笑んで。
腕を、伸ばした。




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